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天正10年(1582年)4月より、秀吉は2万の軍勢で備中高松城を包囲し、黒田孝高の献策を容れて、世に名高い備中高松城水攻めが始まった
秀吉は講和の条件を示し、高松城は城将・清水宗治が切腹することで、城兵は助命するというものです。総大将の毛利輝元として承知しません。忠臣・清水宗治を切腹させるわけにはいかない、というのがその理由でした。
宗治は「ならば拙者は上意に背いても切腹しますので、城兵たちを必ず無事に毛利本陣に送り届けることを、羽柴殿にお約束頂きたい。」。
秀吉は感動を露に「宗治の望む通りとしよう」と承知した。
宗治の辞世の句は、 「浮き世をば 今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して」。
宗治の兄・月清も一緒に切腹し、死出の旅路を共にするつもりなのです。
秀吉は、「清水宗治は武士の鑑であった」としみじみと語ったといいます。
從 天正10年(1582 年)4月開始,秀吉率領兩萬人的軍隊圍攻備中高松城,並接受了黑田官兵衛的建議,展開了著名的水淹高松城的作戰。
當時秀吉開的講和條件是,高松城城主清水宗治切腹自殺,可以不屠城。
身為君主的毛利輝元不同意,是他不能讓忠臣清水宗治切腹自殺。
宗治說:「那麼即使違背上級的意願,我也要切腹自殺,但羽柴一定要把城中的士兵安全送到毛利本部」。
秀吉被打動了,表示同意,並說:「我會按照宗治的意思去做」。
宗治最後的辭世之句是:「世間滄桑,在高松城的青苔上留下武士的名字」。
宗治的哥哥月清也一起切腹,與他一起走向死亡的旅途。
而後秀吉曾誠懇地說,清水宗治是武士的真正典範。