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碑文
明治四十四年福岡県久留米市に生まれる 昭和三年海軍を志し佐世保海兵団入団八年第十九期操縦練習生卒 戦闘機専修大村・横須賀各航空隊 空母龍驤勤務等を経て 十二年八月空母加賀に乗組み 中支上海戦線に出動 九月七日 三機で艦上航空機隊を掩護中大胡上空でカーチス ホーク七機と遭遇 一機を撃墜 ついで九月二十日 南京空襲で三機を撃墜十三年六月 第十五航空隊に転じて南昌空戦に参加 十一月帰還するまでに更に二機撃墜 当時空戦の主流であった単機格闘戦の名手と謳われ(苔で判読不能)その後 蒼龍 飛龍乗組(苔で判読不能) 十五年十一月 海軍航空兵曹長に昇進 除隊したが即日召集太平洋戦争起るや(苔で判読不能)ラバウル ニューギニア各地を転戦 零式戦闘機を駆って敵七機を撃墜 海軍戦闘機隊長の華と称せられたが 結核に冒されて十七年十二月本土送還 人吉(苔で判読不能)改めて定住し療養に専念する傍ら 人吉海軍航空隊の高原飛行場を望見しては 再び操縦桿を握り 後進の指導に挺身する日を夢みつづけた しかし 国破るるに及んで自らも立つ能わず 二十三年十月二十一日 祖国の再建を祈念しながら遂に病没 性豪放 交誼に厚く 年三十七歳勇者逝きて三十五年 高原を望むこの地に追悼の碑名を刻し 在天の霊とともに恒久の平和を希求することいよいよ切
昭和五十八年八月 渋谷 敦撰文 芳賀長雄謹書