昭和17年当時、アジア一帯に戦線を拡大していた日本は、兵員の補充に忙しく、若年労働力が不足し、海軍が航空機生産のため関東一円で大々的に工員を募集しても、200人を得るのがやっとでした。高座海軍工廠の責任者に任命された安田中佐は、昭和17年の春、当時の台湾総督・長谷川海軍大将を訪れ、台湾で学生を募集したい旨の申入れ、それへの協力を要請しました。具体的には、募集に当って学校長や担任の教師に協力してもらうことでした。