人吉空予科練 留魂

2023-05-28

実際に翻訳しているときに涙が出ました、人生は、大我と小我に分かれていますが、あの戦争の時代に、国の安全のために自分の命を犠牲にする勇気は人々の賞賛を浴びるに値ます。

今は戦争もなく、時代も変わったのかもしれませんが、その精神や教養は続けべきです。

碑文

大東亜戦争の劈頭ハワイ・マレー沖海戦に航空主兵時代の到来を実証した。

大東亞戰爭的初期,在夏威夷,馬來西亞的海戰中可以驗證,以航空兵的時代已經到來。

帝國海軍は弥々航空兵力の増強充実に力め国内各地に続々練習航空隊が開設せられた。  

(大日本)帝國海軍也努力充實航空兵的力量,在國內各地陸陸續續開設訓練中隊。

人吉海軍航空隊は其の一つ 昭和十九年二月 球磨郡木上村川辺 球磨の清流に裾を洗わはるる高ン原の大地に開隊 第十八連合航空隊に属し 全国の猛烈なる志願者より選抜採用された飛行予科練習生に整備教育を施し 二十年七月解隊迄に凡そ六千の航空要員を実施部隊に送り出した。

人吉海軍航空隊便是其中之一,於昭和十九年二月,球磨郡木上村河邊,受川水洗刷所形成的高原上開對,隸屬於第十八連合航空隊,為全國最熱忱的志願者中選出,進行飛行練習的準備教育,直到昭和二十年七月解散時,一共培訓了六千位航空要員。

顧れば此の一年半の当隊の活動は戦時の速成教育から九州各基地への防衛協力 戦備強化作業の推進 更に教育中止後は佐世保鎮守府麾下第二十二連合航空隊に編入せられて 九州各地区の防備に任ずる等

回顧過去這一年半,此隊的活動從戰時的速成教育,到九州各基地的偕同防衛,戰備強化的推進,更是在教育結束後,編入由佐世保基地下的第二十二連合航空隊,擔任九州各區域的防禦工作。

 当時の戦局の推移をそのままに反映したものであり 其の執れにも目覚しい成果を挙げたが 終戦と共に其の施設は今僅かに遺る滑走路の他は跡形もなく消え去った。

從當時戰爭情況可以看出戰爭的局勢,而戰爭的結果是顯而易見的,在終戰之後,這些遺跡都被消除了,只剩下幾條跑道還在。

隊員の当時の真剣な意気込は青春の総てであり 山紫水明の風土 純朴なる人情と共に今も忘れ得ざる所。

當時隊員們的愛國情操以及他們的青春年華,以及此地山明水秀、民風純樸的情景,至今令人難以忘懷。

戦後転じて祖国復興の担ひ手となり苦難の道を歩いて二十六年 今繁栄日本を見る

戰後,我承擔了祖國復興的事業,在這個艱難的道路上走了二十六年,終於看到現今繁榮的日本。

往年ここに学びし予科練有志 人吉会を結成し相謀って此の地に記念碑を建つ 曾て此処に培われし敢闘精神を平和の戦士として倍々祖国の進展に活かさんことを期して也

過去在這邊接受過訓練的隊員們,成立了人吉會,並且討論在此地豎立一座紀念碑,我希望把我們在這裡培養,勇敢奮鬥,為國家平和付出的戰鬥精神,可以加倍的用在我們國家的進步當中。

昭和四十六年八月  元人吉海軍航空隊司令 田中千春撰